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 日本外科学会の足跡
日本外科学会成立に関しては昭和25年4月(1950年)第50回日本外科学会総会が東京で開催された時,これを記念しての芳賀栄次郎先生,佐藤達次郎先生の講演に先だつて行われた福田保会長の挨拶の一節をそのまゝ拝借して述べることにする.
 「その創立記事によりますと,明治32年に創立されたのでありますが,それより以前,明治29年福岡病院長大森豊治氏が上京して田代義徳,佐藤三吉先生らと相謀り,外科専門諸氏の会合を催し十数名の出席があつて,日本外科学会創立の議があつた.翌明治30年11月三輪徳寛,木村孝蕨,田代正の3名独逸留学の送別の宴が上野精養軒に開かれた.その席上衆議により日本外科学会を計画し,創立会を東京に於て聞く事を決定した.田代義徳,近藤次繁,佐藤恒久の3先生が日本外科学会規則草案を起草し引続いて同年12月協議会を開き,明治31年4月7日神田青年会館に於て発起人会を開く,会する者約40名,近藤次繁先生本会設立の由来を説明し,明年4 月,第1回日本外科学会を東京に開くことを決定し,役員選挙の結果,会長佐藤三吉先生,幹事近藤次繁,佐藤恒久,田代義徳先生と決定したのであります.その際の趣意書をみますとこんなことが書いてあります.「輓近の我外科学の歴史をうかがうに,その進歩発達の著しい事医学科中殆んど匹儔をみざるところで,古人が曽て神聖不犯と認めた臓器は今日無し‥・・それ内科学が日一日外科学の肉薄する所となり,その領域を削減されつつあるは日下療病医学会の麹勢なりとす‥‥」その意気盛んなことは想像に余りあると思うのであります.
 明治32年4月1日神田一ツ橋帝国教育会講堂に於て開かれたる第1回日本外科学会に当り,佐藤会長の開会の辞の中に「独逸に於て今より28年前に外科学会を起したが丁度日日本でも独逸学会が起つたときと同様の有様でよく似た所があります.外科学有志が団結して当らねば外科の進歩は遂げられない.独逸の発会では僅か150人の会員が出来ましたが,この会はその3倍以上482名の有志が団結出来ました.これからみましても28年を待たずして数年後には独逸の学会に劣らぬ発達を見ることができると思う」と述べられている.
 この第50回総会を記念しての特別講演として外科学会創立当時発起人の唯一の生存者であられた芳賀栄次郎先生が不自由なおからだで壇上に座つてお話しになつた姿は私達にとつては極めて印象的であり,今でもその時の様子が思い浮かばされる.先生の講演の一節を再録する.
 「1905年日本外科学会の第6回総会があつた時,大森博士は内蔵外科の手術を報告した.胃癌手術300例,摘出標本90コ,胆石標本60コを示して一同を驚かせました.屍体からとつたものではないかと云つて疑つた者も居たような有様でした.    そのうち東大の佐藤,塩田の諸氏,仙台の杉村氏らも内臓外科を始めた.佐惑三吉出て日太外科独立し,大森出て内蔵外科抬頭すといえるだろう.    それから後になつて都築博士,岡博士らが出て肺臓の手術を盛んにやるようになり,驚いたことでした.脳外科は斎藤教授のおかげで発達した.骨の折れる仕事でそのために健康を害され亡くなられたのではないかと思うと誠に残念であります.また京大の青柳博士,千葉の河合博士,東京医大の篠井博士らも肺外科をやるようになつて来た.岡山の榊原,大阪の小沢博士らが心臓外科を始め,又福岡では三宅博士が胆石の手術を盛んに行われ全国から患者が集つた.九州の後藤七郎博士が胃・十二指腸外科を始められ,友田博士は目下脾臓外科を始め成功せられている.千葉の三輪徳寛,瀬尾,中山の諸氏が食道外科をやつて居られる.肺の手術は異圧装置を用いても容易でないと云われたものであるが,佐藤清一郎先生はこの方面の先覚者であります.
  まだ云い忘れた人もあるかも知れませんが皆様の協力により日本の外科もだんだんと進んで参りました.第10回の外科学会長田代博士は世界に負けない外科学会と云うことを述べられたが今は世界のどこと比べても劣らない研究が沢山あります‥‥」
 次に佐藤達次郎先生の講演は年長者の一人として前世紀の話を以てロを開かれた.「医学教育の機関としても当時は日本には1つの大学と3つの専門学校があるに過ぎず今日の50の大学と比べると格段の差がある.当時の大学には内科にベルツ,外科にスクリパがあり尊敬の的となつていた.麻酔は仝身麻酔でクロロホルムとエーテルとを混じて用い,ルンバールは未だ見なかつた.レントゲンは多少は使われた程度で骨折に僅かに利用された.今度の外科総会の演題を見てもわかるように範囲も身体の全部に亘り,又成績も非常に良くなり癌なども他の方法では全く治療の道がないところ外科に於てのみ30%治癒せしめ得た.今後は更に他の分野との共同研究の要がありましよう‥‥」続いて今度の戦争で負傷者の治療が進歩したことを述べられ,ことに重傷者に対する失血に関する研究を発表された.
   以上福田会長の挨拶,芳賀・佐藤両先生の特別講演で日本外科学会総会の黎明期を大体知ることが出来る.
 これより先日本外科学会創立満30年を記念して第1回乃至30回会誌に収録された論文の総目次及び索引が1冊子にまとめられて発行されたが,昭和6年4月1日(1931年)第32回日本外科学会総会(会長,茂木蔵之助)が東京で開催された機会に東京帝国大学名誉教授近藤次繁博士によつて「日本に於ける外科学発達の回顧」と題する特別講演が行われた.しかし当日近藤博士は病気のため田代義徳博士が代つて講演された.その演題は「我輩の助手時代の外科を語る」というのであつた.その内容は第1.我輩の助手時代に於ける創傷療法として防腐液,縫合綿,海綿,器械,排膿管,術者及び助手,服装,患者の準備,手術室,暖房,採光,繃帯材料,繃帯の「カケ」方,麻酔,患者の運搬などについて述べられた.第2,は2・3の手術として演者が佐藤教授の下にあつて経験された手術例を紹介された.これに対し佐藤三吉先生,三宅速先生の追加も行われ,真に意義深いものがあつた.ことに佐藤先生の追加の中で「只今田代君から有益なる演説があつて私は甚興味深く聞いた.その中に私も引合に出されて賞められたのか悪口を云われたのか判らない.確かに皮肉もあつたようである.終に云われたように現今の発達した学術で以て昔を見てはならないと云うことを聞いて安心したわけである‥‥‥」この言葉をうかがうと当時が彷彿として感ぜられる.
この総会ではまた同時に4月1日から3日間,工学部三階講堂に於て日本外科史展覧会を開き,わが国外科学に関する史料を陳列して篤学の諸氏の展観に供せられた.その陳列目録の大略は次のようである.即ち太古忍び神代,奈良朝時代,平安朝時代,鎌倉時代,室町時代,安土桃山時代,この時代の末に金創医の一派を生じ,外科は瘡科と金創医との二派に分離した.吉益流金創医,鷹取流外科などが出ている.次に江戸時代前期,江戸時代中期,江戸時代後期,この頃南蛮流外科,「カスパル」流外科,和蘭流外科,栗崎流外科,村山流外科,吉田流外科,西流外科,楢林流外科,嵐山流外科,桂川流外科,吉雄流外科,漢蘭折衷外科,華岡流外科,整骨科,西洋外科,支那外科などの説明がなされている.それに加えて肖像,遺墨の類を陳列し,一はわが外科学の発達の跡を尋ね,一は先輩を偲ぶの資に供せられた.
 また日本外科史展覧会と相並んで,別室に明治時代外科医書展覧会が聞かれ,なお日本医科器械学会ではこれを機会に医科に関する古器械類展覧会が挙行された.かくして諾木会長のもとに閃かれた第32回日本外科学会は色々な行事が催され,日本外村学会創立以来30有余年の足跡を偲ぶに極めて有意義なものであつた.またこの総会に先立ち茂木蔵之助先生主催のもとに「本邦外科学発達の回顧」座談会が昭和6年3月3日午後3時より星ケ岡茶寮に於て聞かれた.三輪徳寛.塩田広重,木村孝蔵,佐藤三吉,芳賀栄次郎,林曄,田代義徳,岡村和一郎,近藤次繁,藤浪剛一,小田平義,松本福松の氏らの集りを得て,極めて面白く,興に乗つて話されるので筆記が大変困難であつたと当時の記録にのつでいる.話題となつたものは日本における独逸医学の濫觴,本邦に始めて輸入せられたX線器械,植皮術,日本医学会,独逸医学と日本医学発達の比較,独逸医学輸入当時の招聘医師,再び防腐法に就て,2・3手術の事,その当時の外科医,縫合糸に裁て,創傷の手当,医療器械に就て,手術台,手術服装,看護婦服装,照明に就て,「ベツト及び運搬車,麻酔剤,止血鉗子と持針器,手術料,食塩水注射,などであつた.これらの記録はわが国の外科学が最も急速の進歩をしたのは明治時代中期であるが,その時代の不十分な記録を明らかにし後世にしらせるために大いに役立つたものである.茂木会長の見解と熱情に改めて敬意を表する次第である.
 かくしてわが国の外科学会は今世紀の初めからこの67年の問にいつとはなしに次第に発展して今日に及んでいる.その内のいずれの部分を見ても,どうしても夢想だになし得なかつた程度に達している.例えば手術室の構造設備を始め,術者の手指,患部の消毒について,滅菌水にいたるまで大なる改良変更が行われた.鎮痛法についても局所伝導麻酔,浸潤麻酔法より,腰髄麻酔・直腸内麻酔にいたり,静脈麻酔を経てモルフイン,スコポラミンなどの基礎麻酔に至まで変遷応用を見,とくにクロロホルム・エーテルに初まつた吸入全身麻酔法のごとき,戦後米国流の気管内挿管麻酔その他の方法を習つて改良応用が行われ,また低温,薬物冬眠麻酔法などの研 究も行われるに至つた.
   外科手術の向上発展については手術手技の練達もさることながら,術前・術後の処置よろしきを得ることがもつとも肝要であり,その重要性が強調されるようになつた.とくに大切なことは診断の確立であつて,そのために第1に数えられるべきはX線の応用発展であり,各種造影剤の改良と相俟つて体内各種臓器の健否を診定し得るに至つた.ことに内視鏡の発達,ファイバースコープの開発など各種臓器の診断を詳かにし,早期診断,早期治療への道を確立することが出来るようになつた.その他,血液,尿,胃液,糞便などの検査によつて診断の精細の度を加え,ことに血液蛋白の量及び種類,電解質含有量などは手術に対する抵抗にかんを示す指針となり,往時外科医の第6感にまかせられたる手術適否選択が数量を以て計上出来るようになつた.その他アイソトープを利用しての検査,経血管マイクロ診断器の登場たども見られるに至つた.
 手術前後処置として必要なことの1つに栄養の問題がある.上記検査によつて必要なる輸血・水分,電解質の注射などが行われ諸種栄養品が造られている.    戦争の末期には独乙より諸種ズルフォン剤が輸入されて急性炎症に対して用いられたが戦後米国より諸種の抗菌剤が輸入され,その後国産品も製造され,急性炎症に対して効果顕著なるをみた.
 これより先,脳・脊髄,肺結核に対する手術など今世紀の初め頃には行われなかつた諸手術も次第に行われるようになり,ことに終戦後はますます盛んに行われ,肺結核に対する気胸・胸廓成形術などを経て,今日では肺切除術も一般に常用せられるようになつた.また大脳半球切除,定位脳手術など脳神経外科方面の発展も一段と進んできた.
 また心臓血管手術は著しい進歩をきたし,人工心肺,その他代用血管など,高分子化学の進歩とメディカル,エロクトロニクスの発展に伴ない先天性及び後天性心臓弁膜異常に対する手術あるいは大動脈の切除,縫合など試みられ良好な結果を得ている.かくして直視下心臓内手術も各所で行われるようになり,弁移植術も実施されている.同時に臓器移植に関する研究も一段と進みつゝある.食道癌,胃癌に対する手術成績も向上し,国際的にも注目をあびるようになつた.かくの如く今世紀の始めには何人も想像出来なかつたことが,可能になつた外科の進歩発展の状況は実に驚嘆に値する.唯これらの進歩の主なろものの内には海外研究者の努力の結果によるものが多く,わが国学者の力によるものは余り多くない.この点大いに努力すべき義務があるが一方国家としてもまた一般国民としてもこれらの点に鑑みて科学の進歩に遅れないように努めるべきであると思う.これからの医学にたずさわるものには「日本医学の優秀性」を自認して,その上で大いに外国の文献と取組んでゆかなげればならない.自己卑下はもつとも禁物である.「医家よ大志をいだげ,そして慎重綿密たれ」とは寺田正中先生がいわれた言葉である.とくに外科医にとつては大切なことである.
 こゝに明治100年に当り日本外科学会総会の足跡を綴るに際し,日本外科学会のあゆみの大要を述べて次に進みたいと思う.
 今回はとくに毎年開催される日太外科学会総会の内容を主体とし,発誌に掲載された論文には触れないことにした.これは外科学発展の内容は総会に提出された演題の方がその当時の実態を示すものと考えたからである.

出典
明治100年に当たり日本外科学会総会の足跡を綴る
第67回日本外科学会会長
第17回日本医学会総会準備委員長
名古屋大学教授 橋本義雄